incognita et cognita

インコグニータ(incognita)のエンジニアリング・音楽・数学・雑学日記です

小池百合子さん、人工知能(AI)だってよ

東京都知事小池百合子さんが、なんかまた強烈に面白いギャグを放ったようですね。
具体的な内容については おときた駿氏のブログ あたりを見ていただくとして、彼女が言っている

最後の決めはどうかというと、人工知能です。人工知能というのは、つまり政策決定者である私が決めたということでございます。回想録に残すことはできるかと思っておりますが、その最後の決定ということについては、文章としては残しておりません。「政治判断」という、一言でいえばそういうことでございます。

 っていう部分にモヤッとする人が多いんじゃないかと思うので、もうちょっとかみ砕いて解説を試みます。

話は一年前、小池百合子さんが東京都知事に当選したころにさかのぼります。当時の彼女は、きっと以下のようなことを考えていたのではないかと思います。

  • せっかく都知事になれたんだから、今までの人ができなかったことをやってみたいわね。
  • でも、ここにはなんだか黒い頭のネズミたちがうじゃうじゃいて、うっとおしいわね。とりあえずは、このネズミたちを退治しないと、やりたいことはなにもできなさそうね。
  • 退治するには、選挙で落ちてもらうしかないわよね。私は笛を吹くから、マスコミや都民のみなさん、うまく踊って、ネズミ退治してくださいね。
  • 選曲は何にしようかしらねぇ。"The Death Scent of Benzene(ベンゼンは死の香り)" とかどうかしらね。

そして、彼女は、ハーメルンの笛吹きよろしく、静かに笛を吹き始めます。彼女の吹く笛の音は多くの人の心をつかみ、一年後、黒いアタマのネズミたちはその数を大きく減らす結果となりました。

今回の人工知能発言が出た記者会見では、彼女はおそらく以下のようなことを考えていたことでしょう。

  • マスコミや都民のみなさんは、思ったとおりに踊ってくれたわね。見ていて面白かったわ。
  • 選挙直前には、うまいぐあいに国のほうからも、モリカケ音頭とか、イナダソングとか、トヨタスクリームとか、いろいろと応援歌が聞こえてきたわね。さすがにここまでは予想していなかったけど、おかげで思った以上に成功したわ。
  • ああそうそう、日和見のコーメー党を抱き込めたのも、成功要因のひとつよ。忘れないでね。私ったらぬかりないでしょ。
  • 決定過程がブラックボックス? あたりまえよ、「あれはおバカなマスコミや都民をうまく踊らせるための選曲(戦術)でした」なんて今言えるわけないじゃん。
  • ネズミはだいぶ退治できたけど、戦いはまだまだこれから。全てが終わって、ほとぼりがさめたら、ブラックボックスの中身を(回想録という形で)ちょっと見せてあげてもいいわよ。

つまり、陣取り合戦の第一陣は、市場移転プロセスのちょっとした不備をネタにしていろいろと戦術をめぐらせた結果、見事に成功した。でも、戦いはこれから第二陣、第三陣と続くし、戦術の具体的な中身を今ここで明かしてしまうと反感を買うだけでロクなことがないから、ばらすわけにはいかない、ということです。

***

彼女が「人工知能」という言葉を使ったのは、「その内部の決定ロジックは公開できない(外からみればブラックボックスである)」ということを別の言葉で言い表しているに過ぎません。

AIの代表格とみなされている深層学習などは、その動作を人間が外から見るとまるでわからない、ブラックボックスのようだ、と言われますが、これは文字通り

  • AIがアウトプットした結果の導出過程を、人間が理解できるようなロジックで説明することは不可能であるか、非常に困難である

ということを意味します。

が、彼女はそれを巧妙に、というかかなり大胆にすりかえて、

  • 私が考えている内容(戦術)をそのままここでぶっちゃけると、いろんなことが台無しになるから、説明できない。
  • 私の頭の中も、AIの内部も、外から見れば「そのロジックを人間がわかるように説明することができない」という意味では一緒。だから、外から見れば私は「AI」に見えるかもしれないわね。

という意味で使っています。

今回の「方針決定」の経緯は、客観的に見ると「ブラックボックス」以外の何物でもありませんが、このワードはあまり聞こえがよくないですし、ご自身でもこれまで攻撃対象ワードとして使ってきているので、もっと他の、キャッチーで、なんとなくマスコミや都民をケムにまけるワードを探したらそれが「人工知能(AI)」だった、ということに過ぎません。

*****

ということで、人工知能どーだこーだというのは、彼女が勢力圏を拡大するための戦術をおおっぴらにはできないということを、それとは気づかれないように、わざとキャッチーなバズワードを使って言い換えているに過ぎません。

権力闘争のさなかで、「今回はこういう策を弄しました、次はこんな作戦で行きます」なんてことを公開する人はいないですよね。

権力闘争??

そう、これはまさに「権力闘争」です。このブログの冒頭で

  • せっかく都知事になったんだから、今までの人ができなかったことをやってみたいわね。

と書きましたが、「今までの人ができなかったことをやる(やりやすくする)」ためには、権力を拡大していく(=自分の味方を増やしていく)必要があるからです。

これまでの都知事は、議会構成を所与ととらえ、いまある議会をどのようにうまく活用すれば(=いまいる議員たちとどのようにうまくコミュニケーションすれば)自分の政策が進めやすくなるか、というところにアタマを使ってきました。

しかし彼女はそこには早々と見切りをつけ、言葉は悪いですが、まずは議会を「粛清」するところから始めようと考えたわけです。もちろん、戦国時代やどこかの国と違って、日本は民主国家ですから、粛清の手段は「選挙」しかありません。選挙に勝つための戦術は、ものすごく簡単に言ってしまえば、「敵はダメダメで、味方はイケテイル」という印象を選挙民に与えることです。

東京都議会は、石原さんの時代から「伏魔殿」と言われてきたように、また女性議員へのひどいヤジなどでも象徴されるように、都民が「ダメダメ」と判断しやすい状況にありましたから、この印象操作合戦は、女性でフレッシュなイメージがある小池さんに最初から有利であったことは間違いないでしょう。

*****

この権力闘争が、都民にとって良いことなのかそうでないのかは、あたりまえですが、彼女が「勢力を拡大したあとに何をやるか」よって大きくかわります。

一部のマスコミや都民は、今回の一連のできごとを「茶番」と評し、都庁や議会、専門家、市場関係者などが懸命に努力した結果をないがしろにするものだ、都民が負担するコストが増えただけで何も解決していない、ちゃぶ台ひっくり返してまた元に戻そうとしているだけじゃないか、という批判をしています。

また、世の識者には、

ということを主張されている方もいます。

小池百合子都知事におかれましては、世の中にはこのような受け取り方をする方が数多くいらっしゃるのだ、ということも念頭におきつつ、これらの人も最終的には

  • 小池都知事が(いろんな策を弄したにせよ)権力を拡大したことは、結果的には都民のためになったのだ

と思えるような施策をとってくれることを強く望みます。

 

「世田谷ナンバーに反対する訴訟」はなぜ発生したか

世田谷ナンバー導入決定!

今日(8月2日)、「国交省が、世田谷を含む全国10箇所のご当地ナンバー導入を決定」というニュースが飛び込んできました。

「世田谷ナンバー導入反対で住民提訴」という報道がなされたのはつい昨日(8月1日)のことで、それによれば国交省

 『ご当地ナンバーの差し止め訴訟が起きたのは初めてのケースで困惑している』

というようなメッセージを出してたように思いますが、一夜明けたら困惑はもうなくなった、ということなのでしょうか。

まぁ、というよりかは、もう内々では導入を決めていたのでしょうから、「困惑している」云々、というのは単なるポーズで、国交省としては、たんたんと手順通り導入発表を行った、というのが本当のところでしょう。

もしここで国交大臣が「訴訟が発生している」ことを不審に思って「待った」をかけていれば、状況は大きく変わっただろうと思います。

が、おそらく、太田昭宏国交大臣は、「たまたま1件訴訟が起きた」だけでは「待った」をかけるほどのことはない、それよりも、区民の大多数が賛成している、とされている調査結果を信じよう、という判断を(30秒ほどで)されたのでしょう。

ま、本当のところはわかりませんけど。

世田谷ナンバー訴訟が発生した理由

ところで、「差し止め訴訟」を起こしている人たちは、なぜこんな訴訟を起こしたんでしょうか。

「世田谷ナンバー新設を反対する会」のサイトには、「区民の大多数が賛成した」とされるアンケートの実施方法について、なかなか興味深いことが書かれています。

これはこれで確かに問題だとは思いますし、ここで指弾されている当事者たちの言い分も是非聞いてみたいところではあります(言わないでしょうけど)。

とはいえ、「訴訟」までするエネルギーがどこから出てくるかというと、これはやはり、彼らの中に

 「世田谷ナンバーよりも、品川ナンバーのほうがカッコいい」

という強い「価値観」があり、その「価値観」が、「署名活動」や「訴訟」に向かわせる原動力になっているのだと思います。

「そんなのどうでもいいじゃん、バカみたい」と思う人もたぶんたくさんいるでしょう。

が、「モノ」を選ぶ・所有する際の判断基準として、そのモノの「機能」だけではなく、「デザイン」も重要なファクターである、ということは、多くの人が認めるところだと思います。

ナンバープレートの文字なんてデザインのうちに入らないって?

いやいや、十分にデザインの範囲内ですよ。だって、クルマの前と後ろのとっても目立つところに、バッチリ書いてあるわけですから。ある意味、ロゴマークと同じです(大体、デザインに入らないのであれば、そもそも「ご当地ナンバー」などという議論自体が意味を持ちません)。

ロゴマークというのは、端的にいえば「ブランド」をあらわします。ブランドには、多くの場合、歴史があります。

「品川ナンバー」が特別なのは、やはり、歴史に裏打ちされた不動の人気があるからでしょう。なぜ品川の評価が高いのかは、よくわかりませんが、まあ、ぶっちゃければ、よくわかんないけどイメージ的にかっこいい、というのが「ブランド」っていうものなんじゃないでしょうか。

「品川ナンバー」が「世田谷ナンバー」になる、というのは、例えて言えば、TOYOTAの高級車に乗ってる人に、「次の車検から、ロゴマークTOYOTAじゃなくて強制的にPONTAになります」と言っているのに近いような気がします。

まあ、中にはPONTAのほうが(世田谷ナンバーのほうが)好きだという人もいるでしょうけど、TOYOTAに愛着があればあるほど(品川ナンバーに愛着があればあるほど)、PONTA(世田谷ナンバー)には拒絶反応を示すんじゃないかなぁ。

「品川ナンバー」という不動のブランド

多少例えが悪かったかもしれませんが、やはりここでいちばん重要なのは、

 「品川ナンバーは、いろんな調査で、不動の一位を誇る人気のナンバーである」

という厳然たる事実だと思います。

これはつまり、世田谷区内にも、「品川ナンバーに強い愛着を持っている」人たちがたくさんいる、ということを意味します。

ここからは感覚になりますが、世田谷区内で「現在のナンバーに強い愛着を持っている」人の人数・比率は、他の「ご当地ナンバー」候補地よりも、はるかに多いのではないかと思います。

「デザインセンス」と「バランス感覚」について

ちょっと話は変わりますが、ものごとを決めるときって、「バランス感覚」ってとても大事ですよね。

とくに、政治を職業としている人たちは、自分の「バランス感覚」をもとに、日々、いろいろな決断をしているわけですから、大変なお仕事だと思います。

バランス感覚といっても、いろんな人の意見を聞いて、ちょうどバランスするところを選べばいい、みたいな単純な話ではなくて、自分の方向性・判断軸がしっかりあった上で、それを自分の言葉できちんと表現し、ある判断をしたときに、なぜその判断をしたのかが説明できて、その判断理由を、全員は無理ですけど、多くの人に納得してもらわなくてはいけないわけですから、本当に大変なお仕事です。

だけど、政治を職業としている人たちの中にも、私のような素人の目から見ても、「ちょっとバランス感覚が乏しいのではないか」と思う人がいます。

たとえば、現在の世田谷区長さんがその例です。

今回のナンバープレート騒動は、その一例です(他にもありますが、ここには書きません)。

彼はおそらく、「世田谷ナンバー(PONTA)」が、好きなのでしょう。そのデザインセンス自体は、否定しませんし、リスペクトすべきだと思います。

だけど、彼の普段の言動からは、「自分と異なるデザインセンスを持つ人に対する想像力・リスペクト」というものが、あまり感じられません(言動といっても、ツイッターぐらいしか見てないですけど)。

なんとなく、「自分のデザインセンスで物事を進める(自分のデザインセンスに、他人を巻き込む)のがリーダーシップだ」と思っているようにも見受けられます。「ロジックで」じゃなくて、「デザインセンスで」ですよ。中小企業を経営しているオヤジであればそれでもいいのかもしれませんが、区長さんってそれでいいのかなぁ。

「バランス感覚」って、他人への想像力やリスペクトから生まれると思うんですよね。

私が区長さんなら、自分がどんなに「世田谷ナンバー」に思い入れがあっても、「品川ナンバーが、人気ブランド調査で不動の一位を誇るブランドである」という「客観的事実」をもとに、「品川ナンバーに強い愛着を持っている人がたくさんいるであろう」ことを「想像」し、その人たちへの「リスペクト」があれば、少なくとも今回のような強引かついい加減なやりかたで「世田谷ナンバーへの強制切り替え」を決めることはなかったと思います。

今後の動向に注目!

いずれにしてもこの騒動、お上の決定が出たことで尻すぼみになるのか、あるいは、世田谷区長さんとは異なる強力なデザインセンスの持ち主たちによるどんでん返しがまだあるのか、しばらく注目したいと思っています。

個人的には、「どんでん返し」が起きると、とっても楽しくてワクワクします。

でわまた。

数学ガール★分割数(partition number)の漸化式と戯れる

数学ガール第一巻の最終章を飾る「分割数(partition number)」について。

数学ガールでは、分割数の母関数表現を使って、ミルカさんがいろいろと面白いテクニックを披露してくれています。これはこれでとても興味深いのですが、分割数の実際の値をコンピュータで計算する、という観点ではあんまり役に立ちません。ここでは、分割数の値を小さい方から順番に求めるために、素直に「分割数の漸化式」を考えてみることにします。

■分割数の定義
まずは分割数の定義を書いておきましょう。

0以上の整数 n の分割数 P(n) は、「nを順序を区別せずに自然数の和に分ける場合の数」で定義されます。
たとえば、P(7)は

7
6+1
5+2
5+1+1
4+3
4+2+1
4+1+1+1
3+3+1
3+2+2
3+2+1+1
3+1+1+1+1
2+2+2+1
2+2+1+1+1
2+1+1+1+1+1
1+1+1+1+1+1+1

という15通りの分割が可能なので、P(7)=15になります。
なお、P(0)=1とします。

■漸化式その1
P(n)の漸化式を考えるために、P(n)を構成する場合の数を分類してみましょう。
どういう基準で分類するのがよいか、ということですが、ここではまず「それぞれのケースの最大の数」によって分類してみることにします。P(7)の場合は、以下のように分類されます。

[最大の数が7]
7
[最大の数が6]
6+1
[最大の数が5]
5+2
5+1+1
[最大の数が4]
4+3
4+2+1
4+1+1+1
[最大の数が3]
3+3+1
3+2+2
3+2+1+1
3+1+1+1+1
[最大の数が2]
2+2+2+1
2+2+1+1+1
2+1+1+1+1+1
[最大の数が1]
1+1+1+1+1+1+1

ここで、P(n,m)を次のように定義します(n≧0, m≧1)。

 P(n,m) := 整数nを順序を区別せずに「m以下の自然数」の和に分ける場合の数

定義から明らかに、P(n) = P(n,m) (n≦m)が成立します。

また、P(n)の場合の数のうち、「最大の数がm」のものの場合の数はP(n-m,m)であらわされることがわかります。

たとえば上の例で[最大の数が3]のグループに注目すると、このグループの組み合わせの数は、先頭の3を取り除いた残りの「4」を分割する組み合わせの数になるのですが、その際に各要素は「このグループの最大の数=3」を超えてはいけないので、結果、このグループの組み合わせの数は P(4,3) になります。

また、[最大の数が3][最大の数が2][最大の数が1]のグループの組み合わせの数を合計したものに注目すると、これは「7を3以下の自然数に分割する場合の数」ですから、定義によってP(7,3)になります。

ついでに、[最大の数が2][最大の数が1]のグループの組み合わせの数を合計したものに注目すると、これは「7を2以下の自然数に分割する場合の数」ですから、定義によってP(7,2)になります。

つまり、P(7,3) = P(4,3) + P(7,2) となるわけです。

一般的に書くと、

 P(n,m) = P(n-m,m) + P(n,m-1) (n≧m)

となります。

初期条件も含めて正確に書くと、P(n,m) (n≧0, m≧1)の漸化式は

 P(0,m) = 1
 P(n,1) = 1
 P(n,m) = P(n-m,m) + P(n,m-1) (n≧m>1)
 P(n,m) = P(n,n) (n<m)

のようになります。


■漸化式その2

P(n)の場合の数を、別の方法で分類してみましょう。
Q(n,r) (n≧1, r≧1)を、次のように定義します。

 Q(n,r) := 整数nを順序を区別せずに「r個の自然数」の和に分ける場合の数

定義から直ちに

 P(n) = Q(n,1) + Q(n,2) + ... + Q(n,n)
 Q(n,1) = 1
 Q(n,n) = 1

がわかります。

Q(n,r)の漸化式を考えましょう。

例があったほうがわかりやすいので、Q(10,3)の組み合わせを列挙してみます。

8+1+1
7+2+1
6+3+1
6+2+2
5+4+1
5+3+2
4+4+2
4+3+3

つまり、Q(10,3)=8ということです。

ここで、それぞれの数字から1をひいたものを考えてみます。

7+0+0
6+1+0
5+2+0
5+1+1
4+3+0
4+2+1
3+3+1
3+2+2

0を省略してちょっと並び替えると

[分割の数が1]
7
[分割の数が2]
6+1
5+2
4+3
[分割の数が3]
5+1+1
4+2+1
3+3+1
3+2+2

ということで、Q(10,3)は実はQ(7,1)+Q(7,2)+Q(7,3)と同じであることがわかります。

同様の計算を Q(9,2)に対して行うと、Q(9,2)はQ(7,1)+Q(7,2)と同じであることがわかります。

これらを組み合わせると、

 Q(10,3) = Q(9,2) + Q(7,3)

が成り立ちます。一般的に言うと、

 Q(n,r) = Q(n-1,r-1) + Q(n-r,r)

です。

初期条件も含めて正確に書くと、P(n) (n≧0)の漸化式は

P(0) = 1
P(n) = Q(n,1) + Q(n,2) + ... + Q(n,n)
Q(n,1) = 1 (n≧1)
Q(n,n) = 1 (n≧1)
Q(n,r) = Q(n-1,r-1) + Q(n-r,r) (n≧r≧2)

となります。

■漸化式その3

ついでに、もうひとつ漸化式を考えてみます。
漸化式その1では

 P(n,m) := 整数nを順序を区別せずに「m以下の自然数」の和に分ける場合の数

としていましたが、今度は S(n,r) (n≧1, r≧1)として

 S(n,r) := 整数nを順序を区別せずに自然数の和に分ける場合の数(ただし使われる自然数の最大値をrとする)

というものを考えてみます。
定義から明らかに

 P(n) = S(n,1) + S(n,2) + ... + S(n,n)
 S(n,1) = 1
 S(n,n) = 1

がわかります。

ん、Q(n,r)と同じですね。

もしかして漸化式も同じでしょうか?

ということで、「漸化式その2」と同様にS(10,3)の組み合わせを列挙してみると

3+3+3+1
3+3+2+2
3+3+2+1+1
3+3+1+1+1+1
3+2+2+2+1
3+2+2+1+1+1
3+2+1+1+1+1+1
3+1+1+1+1+1+1+1

つまりS(10,3)=8です。

ここで、先頭の3を取り払ってみると

[合計が7、最大値が3]つまりS(7,3)のもの
3+3+1
3+2+2
3+2+1+1
3+1+1+1+1
[合計が7、最大値が2]つまりS(7,2)のもの
2+2+2+1
2+2+1+1+1
2+1+1+1+1+1
[合計が7、最大値が1]つまりS(7,1)のもの
1+1+1+1+1+1+1

ということで、Q(10,3)の場合と同様、

 S(10,3) = S(7,3) + S(7,2) + S(7,1)

となることがわかりました。S(7,2)+S(7,1)の部分は、同じ議論でS(9,2)と等しいことがわかりますので、一般的に言うと、

 S(n,r) = S(n-1,r-1) + S(n-r,r)

となります。

漸化式も初期値も同じということなので、これはつまり

 Q(n,r) = S(n,r)

ということですね。

 Q(n,r) := 整数nを順序を区別せずに「r個の自然数」の和に分ける場合の数
 S(n,r) := 整数nを順序を区別せずに自然数の和に分ける場合の数(ただし使われる自然数の最大値をrとする)

は、違うことを言っているように見えるのに、実は同じ値になる、ということがわかりました。

■なぜQ(n,r)とS(n,r)が同じなのか

上記のロジックをなぞれば、Q(n,r)とS(n,r)が同じになるのはわかるのですが、それぞれの定義から、これらが同じに値になる、というのはちょっとわかりづらいですね。

[Q(7,3)](7を3個の自然数の和に分割する場合の数)
5+1+1
4+2+1
3+3+1
3+2+2
[S(7,3)](7を自然数の和に分割する場合の数のうち、使われる自然数の最大値が3のもの)
3+3+1
3+2+2
3+2+1+1
3+1+1+1+1

ということで、確かにどちらも4になるのですが、なぜこれが一致するのでしょうか。

直感的に理解するために、定義に立ち戻って考えてみましょう。

Q(n,r)は、「n個の(区別できない)ボールを、r個の(区別できない)箱に、ボールにも箱にもあまりがないように割り当てるときの場合の数」とみなすことができます。

Q(7,3)では、7個のボールを3つの箱に割り当てるということで、横方向に3つの箱を、縦方向にボールを描いてみましょう。

そうすると、Q(7,3)は、以下のように図示することができます。

[5+1+1]
●●●
●
●
●
●

[4+2+1]
●●●
●●
●
●

[3+3+1]
●●●
●●
●●

[3+2+2]
●●●
●●●
●

ここで、足し算の順番を縦と横で入れ替えてみましょう。
横方向は、Q(7,3)の定義によって「最大値が3」であることがわかっているので、これはまさにS(7,3)の定義に一致することがわかります。
つまり

[5+1+1] ⇔ [3+1+1+1+1]
[4+2+1] ⇔ [3+2+1+1]
[3+3+1] ⇔ [3+2+2]
[3+2+2] ⇔ [3+3+1]

というマッピングが成立しました。

以上、直感的な説明おわりです。

■計算サンプル

おまけで、Perlによる計算のサンプルを載せておきます。
「漸化式その1」を使っています。計算量およびワークメモリ使用量は n2 に比例します。
エラーハンドリングコードは省略しているのでご注意ください。

#! /usr/bin/perl

use strict;
my %Pcache;
my $N = $ARGV[0];
my $M = $N;
$M = $ARGV[1] if ($#ARGV == 1);

printf "P(%d,%d)=%d\n", $N, $M, calcP($N, $M);

sub calcP
{
  my ($n,$m) = @_;
  if ($n == 0) { return 1; }
  if ($m == 1) { return 1; }
  if ($m > $n) { return calcP($n, $n); }
  if (! defined($Pcache{$n}{$m})) {
    $Pcache{$n}{$m} = calcP($n-$m, $m) + calcP($n, $m-1);
  }
  return $Pcache{$n}{$m};
}

でわまた。

仮想現実に関するメモ書きその1

Evernoteがわりにメモ書き。
森博嗣すべてがFになる」より。

萌絵「仮想現実の技術の問題点は何だとお考えですか?」

真賀田博士「現在は、主として三つの障害があります。
第一に、処理系のハード的な力不足、第二に、人間にそれを受け入れる用意があるのかと言う道徳的な問題、そして、第三に、受け入れたあとに現れる生物的な未知の影響です。

第一の問題は、着実に解決されつつあります。私がこの技術に関わって、既に十年になりますが、コンピュータのハード面での容量は飛躍的にゴールに近づいています。

第二の問題は、深刻ですが、それでも、さきほどの話と同様に、生まれながらにバーチャル・リアリティの環境で育つ世代には受け入れられるでしょう。人間はプログラムより柔軟ですからね。人間のリアクションの問題も、ジェネレーションが替われば解決するでしょう。

第三の問題は、どんな変革にも必ず現れる精神的・肉体的症候ですからね。これは、私の分野ではありませんし、私はそういった点に興味はありません。はっきりいえば、些末な問題です」

桜のトンネルをくぐってきました

桜が満開ですね。

都内某所の、桜並木を散歩してきました。

道路の両側に立ち並ぶ桜の木から、満開の花を湛えた枝が中央に向けて伸びており、まさに「桜のトンネル」をくぐっている感じです。

それぞれの桜の木を注意して見ていると、何十年も経っていると思われる老木もあれば、まだ数年と思われる若木もありました。

老木には、太い幹に深い皺が刻まれており、「よくここまでがんばったね」と言いたくなりました。いろんな時代を、過ごしてきたんだろうなぁ・・・。

若木は、スリムな幹がぴんとまっすぐに立っており、「これからが楽しみだね!」と言いたくなりました。

きっと、何十年かあとには、いまの若木が老木になって、一年に一度の桜のトンネルを、街行く人たちにプレゼントしてくれるのでしょう。

こういう街並みは、ずっとずっと大切にしていきたいな、と思いました。

セカンドライフはなぜ流行らなかったのか

会社で、「セカンドライフってどうなったんだろうね、あんまりはやらなかったね」「このソフトもあとは余生(セカンドライフ)を送るしかないんだろうね」みたいな話をしていたのだが、その後「なぜこれはうまくいかなかったのか」というのを少し考えてみた。

最初に思ったのは、「所詮は虚構の世界の中の出来事に過ぎないからではないか」ということ。

もうちょっと説明すると・・・

セカンドライフを「仕事で仕方なく」やってる人はまあ少ないだろうから、大部分の人は「楽しみを求めて」やってきているはずだ。

人間が楽しさを感じる要素はいろいろあるが、セカンドライフのような類の仕組みはおそらく、「他人とのコミュニケーションそのものを楽しむ」ことを一番の目的としていると思われる。もちろん、セカンドライフの空間そのものをぶらついたり、セカンドライフで提供している言語を用いていろいろなモノを作ったりすることに「楽しみ」を覚える人もいるだろうが、いずれも「他人とのコミュニケーション」という目的がなければ長続きはしないだろう。

コミュニケーションには当然「自分」と「相手」が必要だが、セカンドライフ上ではこれらはいずれも、擬人化したオブジェクトである「アバター」で表現される。

これはセカンドライフに限った話ではないが、こういうアバターはインターネット上では、「それを操作する人自身をあらわすキャラクター」というよりは、「それを操作する人がシステム上で作成した架空のキャラクター」とみなされることが多い(と思う)。

セカンドライフのワールドには、こういう架空のキャラクターがうじゃうじゃいて、これらの架空のキャラクターたちが架空のショップや建造物を作り、それら架空のモノをベースにした会話が日々繰り広げられている。つまりは、架空のキャラクターたちが闊歩する『虚構の世界』というわけである。

ところでコミュニケーションの楽しみというのは、本来の「リアルな自分」が「楽しい」と感じなければ始まらない(あたりまえですが)。セカンドライフ(に限らずネット上のこれに類する仕組み)がうまくいかないのは、上記のような「虚構の世界のにおい」をかぎとった人が「虚構の世界のコミュニケーションでは本来のリアルな自分の楽しみは得られない」と思って離れていく(最初から虚構の世界を感じている人はそもそも入り口にすら近づかない)のが原因ではないか、と考えた。

以上が、まず最初に思ったこと。

ここからは、だんだん妄想の世界に入ります。

次に考えたのは、「虚構の世界のコミュニケーションではリアルの自分の楽しみは得られない」ということ自体、そもそも私の思い込みなんじゃないか、実は虚構の世界のコミュニケーションでも十分に楽しいということを私が知らないだけなんじゃないか、ということ(実際、まだセカンドライフにハマっている人たちも多いはずだし)。

とはいえ、いまのセカンドライフでは私が「楽しい」と思えそうにないことは事実なので、「どうすれば楽しいと思えるようになるか」を考えてみた。なお、ここでの「楽しさ」の要素からは、一般的にありがちな「性欲」(セックスバーなど)や「金銭欲」(アイテム販売やカジノなどを通じたリアル金銭とのリンクなど)については除外する。

たぶん、3つの方向性があると思う。

ひとつめは、「架空のアバターとリアルな人間を直接リンクする」という方向性。

アバターとのコミュニケーションが「うそくさい」と感じるのは、前述したように、アバター自身はあくまでもそれを作成した人間が生み出した「架空の存在」で、それを生み出した人間自身の人格とは別モノだという感覚(私の思い込みかもしれませんが)があるからだと思う。

一方で、ネット上のブログなどは、一部は実名を公開している人はいるものの、人気のブログであっても「匿名」で書かれているものが多い(特に日本では)。ここでの「匿名」は、あくまでも「個人情報を開示したくない、あるいはあまり広く名前を公開されるのは気恥ずかしい(特に日本では)ためにネット上でそれを伏せている」だけであって、それを書いている人が「別人格で」書いているとは思わないのが普通であろう。つまりそのブログで表現されているのは「リアルなその人自身の意見」であり、コメントやトラックバックを通して行われるのは「架空のキャラクター同士のコミュニケーション」ではなく「その背後にいるリアルな人間同士のコミュニケーション」である。

セカンドライフにおいても、アバターが「その背後にいる人間そのもの」をあらわしているという感覚、つまりコミュニケーションしている相手は「架空のキャラクター」などではなく、その背後にいる「リアルな人間自身」なのだ、という感覚を得られるようになれば、もっと「楽しい」と思えるようになるかもしれない。

アバターがその背後にいる人間そのものに直接リンクされている」という感覚を得るようにするためにはどうすればよいか、という議論は各論になるのでここではいったん置いておく。

ふたつめは、「仮想現実感のレベルを上げる」という方向性。

これについてはあまり説明は要らないと思われるので簡単に述べるにとどめるが、現在の「セカンドライフ」の世界は、歩いたり空を飛んだりなどいろいろなことはできるとはいえ、所詮は2次元のディスプレイの中での出来事なので、「自分が実際に体験している」という感覚からはほど遠い。逆説的だが、「夢の中での体験」のほうがまだよっぽど現実感がある。これは、デバイスがもっと進化したり、かなりSFチックになるが頭にすっぽりと装置をかぶせて脳を直接コントロールする(夢を見ているような状態にする?)ようなことができれば、たとえそれが虚構とわかっていてもやってみたくなるくらい楽しいと思えるようになるかもしれない。

コミュニケーションとの関連で言えば、いくら現実感があっても一人でやっているとそのうち飽きるので、たとえば「友達や恋人と一緒に仮想現実の中に飛び込んで楽しめる」ようなレベルまで仮想現実感のレベルを上げる、ということになるだろう。ディズニーランドにわざわざ行かなくても、友達、恋人、家族などとのコミュニケーションを、「仮想現実」が支援できるようにする、という考え方である。Wiiなどはまさにこれに近いだろう。

仮想現実感のレベルアップの具体的な内容や手段については、各論になるのでここではいったん置いておく。

みっつめは、「虚構も現実の一部として受け入れる」という方向性。

これはこれまでの2つより説明が難しい(というより自分でもうまく説明できない)が、あえて説明を試みてみる。

セカンドライフの世界というものは、架空とはいえ、現実的にインターネット上で「活動している」アバターや、「建っている」建造物などから構成されているものであり、これらをありのまま受け入れてしまえばそれはもはや「虚構」ではなく、「現実の一部」であると考えることができる。

コミュニケーションの相手は、なにも「リアルな人間そのもの」や「背後にその人間の存在を直接感じることができるキャラクター」である必要はない。
「リアルな人間が作り出した架空のキャラクター」も、現実的にそういうキャラクターがセカンドライフという世界の中に存在する以上、コミュニケーションの相手として捉えることができるかもしれない。

たとえば私たちは、犬やネコなどのペットとは、人間同士のコミュニケーションとは別の次元でコミュニケーションができている。この場合、相手を人間とは違った「生きもの」としてそのまま受け入れ、言葉ではない、生きもの同士としてのコミュニケーションを成立させていることになる。

また、SF小説などでは将来的にはロボットとのコミュニケーションができるようになるといわれているが、これも人間同士のコミュニケーションとは別次元でのコミュニケーションとなる可能性が高い。この場合、相手を、人間が作り出した機械であることを認識した上で、独立したアイデンティティを持った実体として受け入れることになる・・・かどうかはわからないが、SFではそう描かれている場合が多い。

架空のアバターとのコミュニケーションは、これらとはまた異なる、「人間が作り出して、人間が操作している実体」とのコミュニケーションであると捉えることができるのかもしれない。私たちは小説やドラマに出てくる人間には感情移入するが、ノンフィクションの場合は別としてこれらは作家や脚本家が作り出した「架空のキャラクター」である。それの延長上で考えれば、人間が作り出した「架空のキャラクター」と直接コミュニケーションすることに感情移入し、楽しさを感じたとしても何の不思議もない、のかもしれない。

具体的にどのようにすれば「架空のキャラクターとのコミュニケーション」を違和感なく受け入れて楽しむことができるようになるのか、という議論は、各論になるのでここではいったん置いておく。

以上、セカンドライフを題材にして、ネット上でのコミュニケーションの楽しみ方という観点で3つの方向性を示してみた。

(1)「架空のアバターとリアルな人間を直接リンクする」という方向性
 →ネットを利用してリアルな人とのコミュニケーションを増やそうという考え方。

(2)「仮想現実感のレベルを上げる」という方向性
 →テクノロジーを使ってコミュニケーションの質を上げたり手段を増やそうという考え方。

(3)「虚構も現実の一部として受け入れる」という方向性
 →コミュニケーションの対象はリアルな人間そのものに限る必要はない、というはっちゃけた考え方。

それぞれ、相互に関連している部分もあるし、具体的な話になるとまだまだわからないことがたくさんあるが、「ネットそのものの方向性」を考える上でのヒントになる(かもしれない)ので、暇をみつけて深堀りしていきたいと思う。

以上です、よろしくお願いいたします。

クラウド化する世界(ニコラス・G・カー)

池田信夫blogで紹介されていた「クラウド化する世界(原題:The Big Switch)」をひまつぶしに読んでみた。

かつて「電力」が、各企業の工場内での自前調達から、送電線を経由した電力会社からの調達に変わったように、コンピューティングについても、ハードウェア・ソフトウェアともに、自前調達は少なくなっていくだろうというもの。

この流れ自体は、多くの人が認めるところだろう。

この本では、世の中がそうなったときに、あるいはそうなる過程で、どういう現象が起こるのかが、米国内での事例を多々引用しながら、淡々と述べられている。

たとえば、第7章「多数から少数へ」では、ざっくりいうと、

YouTubeなどに見られるように、多くの人たちが、便利な道具を得て、ボランティアの「生産者」になっており、玉石混交とはいえ、すぐれた生産物も混じっている。だが、それによって富を得ているのは、富を得る才能とビジョンを備えたごく少数の人たちだけである(業界では、このような仕組みをアウトソーシングをもじってcrowdsourcingと呼ぶ)。このように、ワールドワイドコンピューティングの進化は、デジタルエリートを強化させ、大多数の中産階級を弱体化する方向に拍車をかける現状となっている。

というようなことが述べられている。

いろいろな事象が記述されていいるので、「結局どうなのよ?」というのが、一読しただけではちょっとわかりづらい。また、米国で起きていることと、日本で起きていることは必ずしも同じではないが、ではその違いはどこから来ているのか?ということを考えながら読むのも一興だろう。